Diarynoteサービス終了に寄せて
Diarynoteサービス終了に寄せて
はじめに

マジックのユーザーがDiarynoteというサービスに集っていて、そこで独自文化を形成しているということは、どの界隈の人に話しても驚かれる。私は数年前にマジックに復帰してからこのサービスを知ったが、ネットの片隅で同じ趣味を持ったユーザーが毎日活発にブログを更新しているさまは、まさに秘密の楽園のように思えた。

そういうわけで私も日記を開設し、そして2年半も放置することになった。本来ならばもう少し頻繁に更新するつもりが、1年に1度の更新すらままならないとは、自分の怠惰さに驚き恐れ入るばかりだ。

そのような明らかに熱心でないユーザーでも、このサービスの終了に際しては何か書き残しておきたい気持ちになった。そこで、Diarynoteでの最後の投稿として、構想に終わって書かれなかった記事について書くことにした。そんなものを読みたい人がいるとは到底思えないが、存在しないカードばかり話題にしてきたブログにおける、存在しない記事の記事、それ以上にこのブログの最後にふさわしいものはない。

長くなるので、重要なことは先に述べておくことにしよう。Diarynoteの運営者の皆様、そしてこのブログを読んでくださった皆様、ここに感謝申し上げます。

拡張アート

このブログのURLに「https://casualmtg.diarynote.jp」とあるように、当初このブログはマジックのカジュアルな楽しみ方をテーマにしたブログだった。そして、その主要なテーマのひとつになる予定であり、1度たりとも記事にならかったものが、拡張アートだ。

2015年ごろ、私は拡張アートにはまっており、その主要な情報源のひとつとしてDiarynoteがあった。日記を開設すれば拡張アート作成者の情報を追うことが容易になるというのも、このブログを作った理由のひとつだ。

結局のところ、今に至るまで私の作品はどこにも発表していないが、何かの機会があれば公開してみたい。

小噺

2019年、このブログの長文の記事に対して、短く雑多なテーマを取り扱うために小噺という区分を設けた。ここでは新しいセットのカードデザインの話、ルール文章のテンプレート変更の話、Tumblrに投稿したカードの話など、長文にするほどでもない小さなテーマを扱う予定だった。それが続かなかった理由は? どうしても長く書く癖が抜けなかったからだ。

アートとアーティスト

あまり意識されないことだが、現在のマジックはその歴史において類を見ないほど多様なスタイルのアートを取り扱っている。その変遷についてまとめた記事も、構想に終わった計画のひとつだ。

はるか昔、黎明期のマジックでは、写実的なファンタジーイラストには括れないスタイルのアーティストが多数起用されていた。その後、ある時点からマジックはハイ・ファンタジーの世界観に合致するアーティストを積極的に選ぶようになり、《鳥の乙女/Bird Maiden》や《永劫の輪廻/Enduring Renewal》、《日中の光/Light of Day》のようなアートが印刷されることは少なくなった。

次の変化はデジタル化で、物理的な絵の具ではなく、コンピュータを使って描かれたアートが段階的に増えていった。今となっては考えられないことだが、当初はデジタルツールを使って描かれたアートに拒否反応を示すユーザーも少なからずおり、Matt Cavottaが自身の記事においてデジタルアートは従来のアートに比べて何ら卑しいものではないと説明したこともあった。

その10年以上のち、もはや写実的なデジタルアートが主役となった現代のマジックにおいて、興味深い変化が起こった。私の考えでは、その発端はドミナリアで登場した英雄譚にある。英雄譚は時系列的な物語を表す新しい種類のカードであり、そのため写真のように瞬間を切り取る写実的なアートとは全く異なるスタイルが必要になった。ステンドグラス、タペストリー、絵巻物、彫刻など様々な形式のアートが使われたドミナリアの英雄譚において、懐かしのMark Tedinが起用され(《アンティキティー戦争/The Antiquities War》)、優れたインク画のスキルを持つRavenna Tranが発掘された(《最古再誕/The Eldest Reborn》)。

さらに、現代のマジックのアートを語るうえで欠かせないのは、ショーケース・カードやSecret Lairの存在だ。それらは既存のカードを別の見た目にしたというだけでなく、これまで採用してこなかった新しいアートのスタイルをマジックに取り込み続けている。

日本人アーティストの活躍も忘れてはならない。灯争大戦における日本オリジナルアートの衝撃から数年、神河:輝ける世界では多数の日本人アーティストが起用された。中でもえすてぃお氏の起用は嬉しい驚きでもあった(《耐え抜くもの、母聖樹/Boseiju, Who Endures》)。私が氏を知ったのはDiarynoteで発表していた素晴らしい拡張アートがきっかけで、その数年後に複数のマジックのアートを担当するという快挙を目の当たりにすることになった。氏の並外れた才能とDiarynoteの物語として、ここに記録しておきたいと思う。

……https://magic.wizards.com/en/articles/archive/feature/rt3000-future-magic-art-2006-01-18(RT3000, The Future of Magic Art)

ラヴニカの裏ギルド

このブログで書いたことの多くは私が考えたマジックのカードのアイデアにまつわるもので、書かれなかったものも相当ある。「ラヴニカの裏ギルド」は、2019年のカードセットであるラヴニカのギルドをもとに構想したものだ。

ラヴニカのギルドのような2色の組み合わせ5つからなるカードセットでは、往々にしてリミテッドの自由度が犠牲になる。たとえば、白いカードを中心に2色でデッキをまとめようとすると、ラヴニカのギルドでは赤白か緑白のギルドに選択肢が限られる。これはラヴニカやストリクスヘイヴンといったセットにつきものの問題で、その解決策を考えるのが「ラヴニカの裏ギルド」の主題だ。

内容は概ね以下の通りだ——2色のギルド5つからなるセットで、ギルド外の色の組み合わせをサポートするためには、ギルドのメカニズムと相互作用する、ギルド外の色のカードがあればよい。その際、単に2色のギルドを補助する3色目のカードにならないように、ギルドの戦略と矛盾するようにデザインする。

たとえば、赤白のボロス軍のメカニズムをデザインしたとする。GRNには黒赤と白黒の組み合わせは存在しないため、対応するギルド外の色は黒となる。ボロス軍のメカニズムと何種類かの黒のカードはシナジーを生むようにデザインされているため、黒赤と白黒の戦略が可能となる。ただし、それらの戦略はボロス軍の戦略とは相反するため、赤白の多色のカードと組み合わせることにはメリットが少ない。

この発想に基づいてセットをデザインすると、ギルドのメカニズム1つと、それと相互作用する2つの矛盾した戦略が5組必要だということになり、悩ましくも楽しい論理パズルが生まれる。実のところ、このメカニズムと戦略のデザイン自体は終了しており、記事を書く作業のみを残して放置されている。

合体カードの歴史

《夜のスピリット/Spirit of the Night》から《メカ巨神のコア/Mechtitan Core》まで、カードを合体させるというアイデアはいつの時代もプレイヤーを興奮させる。私自身も合体カードが大好きなので、メカニズム的な側面からそれを取り上げることができれば楽しいはずだ。

この記事の難しさは、日英問わず類似の記事が存在するため、それらに目を通さなければならないことだろう。また、《ウェストヴェイルの修道院/Westvale Abbey》は合体カードといえるのかなど、定義の問題も存在する。

サイバーパンク

神河:輝ける世界の発表以後では嘘にしか思えないかもしれないが、サイバーパンクをマジックのメカニズム上で表現するというチャレンジについて考えていた時期がある。中核となるメカニズムは完成し、カードも何枚かデザインしたが、幸いか神河:輝ける世界とはずいぶん異なる世界観となった。印刷された新しい神河はサイボーグと神が入り乱れるアーティファクトとエンチャントのセットだが、私はコンピュータ上の電脳空間をマジックで表現したのだった。

ところで、ギブスンの『ニューロマンサー』しかり、士郎正宗の『攻殻機動隊』しかり、サイバーパンクには日本がつきものだ。ならばその舞台に最もふさわしいマジックの次元は……

どうあがいても嘘にしか思えないので、このアイデアはお蔵入りかもしれない。

マジックで別のゲームを遊ぶ

ちょうどこのブログを始めた頃から、私はボードゲームを遊ぶようになった。現代のボードゲームは伝統的なゲームとはまるで違っており、多人数で遊ぶ、繰り返し遊ぶ、楽しく遊ぶといった命題のためにさまざまな技術を発達させている。

他方で、採用するカードによって全く異なるゲーム展開を見せるマジックは、優れたプログラム言語でありうる。マジックのルールを骨格として、そこに既存のカードを付け加えることで、別なゲームのアルゴリズムを実行することすらできるかもしれない。モミール・ベーシックはそのよい例だ。

この2つのアイデアを連結させるとどんなことが可能になるだろうか? ゲーム開始時から戦場に《石の賢者、ダミーア/Damia, Sage of Stone》と《狂気の種父/Sire of Insanity》を置き、《首謀者の収得/Mastermind’s Acquisition》と《水蓮の花びら/Lotus Petal》でデッキを作る。これでボードゲームの世界で言うところのデッキ構築型ゲームの完成だ。はたして楽しいゲームが作れるかどうかはさておき、こうした構想は常に頭の中にある。

エルドラージとウギンとサルカン

戦乱のゼンディカーで、エルドラージはレトコン(retcon)された、という意見がある。レトコンとは後付け設定のことで、狭義には後続作品が先行作品との連続性を保つため、意図的に先行作品の設定を壊すことを意味する。

エルドラージと面晶体は最初のゼンディカー・ブロックの主要な謎であり、面晶体はエルドラージとその文明が作ったものだとほのめかされていた。しかしながら、戦乱のゼンディカー・ブロックにおいてはそれはミスリードであったとされ、面晶体はナヒリがこの次元にエルドラージを封印するために作った構造物であると結論づけられた。

この「正史」がいつの時点から計画されていたかは定かでないが、《夢石の面晶体/Dreamstone Hedron》をはじめとして全ての背景が無矛盾に説明されたとは言い難い。したがって、戦乱のゼンディカー以降の世界設定に違和感を覚えるユーザーは、ゼンディカーのストーリーにレトコンが行われたと考えている。

夢石の面晶体/Dreamstone Hedron  (6)
アーティファクト ROE, アンコモン
(T):(◇)(◇)(◇)を加える。
(3),(T),夢石の面晶体を生け贄に捧げる:カードを3枚引く。

「エルドラージの精神のみが、面晶体を開きその力を自らの物にするための歪んだ道筋をたどることができる。」


しかしながら、私は少し違うことを考えている。WotCによるエルドラージの設定の改変以前に、改変された歴史があったではないか。そう、ウギンとサルカンの物語だ。

どこまでも飛躍した解釈であることを承知のうえで、私の考えはこうだ——かつて、エルドラージはゼンディカーに面晶体を築き、何らかの理由で姿を消した。ウギンはボーラスの謀略によりタルキールで死んだが、サルカンが時を超えてウギンの命を救った。それ以降、歴史は並行世界のものにすり替えられ、かつてエルドラージが築いた面晶体はナヒリの手によるものになり、エルドラージの拘束具になった。

この解釈こそ矛盾だらけなのは間違いないが、時を超えて蘇ったはずのウギンが戦乱のゼンディカーであまりに非協力的なことを含め、いくつかのストーリー上の疑問を解消することができるような気がしている。

それにしても、戦乱のゼンディカーへの苦言だけでいくつも記事を書いておきながら、まだ書き足りないことがあるのだから驚きだ。

あとがき

これらの構想が、いつかまとまった文章の形で公開されるかどうかはわからない。どこでどういった形式で公開するべきかもわからないが、裏を返せば、それだけDiarynoteが貴重な場所だったということだ。

いつかどこか、短文も長文も公開でき、同好の士の熱気にあふれた、ほどよく閉鎖的な場所で再び出会うことができたなら、これほど嬉しいことはない。

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