メルヴィン的、フレイバーの25年(前編)
メルヴィン的、フレイバーの25年(前編)
メルヴィン的、フレイバーの25年(前編)
はじめに

私がタルキール覇王譚でマジックに復帰したとき、特に驚いたのは新時代のマジックにおけるフレイバーの扱いだった。私の記憶の中のかつてのマジックでは、新しいエキスパンションを作ることは新しいメカニズムを打ち出すこととほとんど同義であり、アラビアンナイトやポータル三国志、神河物語といった少数の例外を除いて、新しいセットは対戦ゲームとしてのマジックを更新するためだけに存在していた(ように感じられた)。

もちろん、現在のマジックにも同じような傾向は存在するし、かつてのマジックがフレイバーに乏しかったわけでもない。しかし、それでも現在のマジックが以前に比べてずっと多様な方法でフレイバーを扱っているのは明らかな事実だ。

とはいえ、私は新時代のマーケティング手法(ストーリーをウェブサイトで公開したり、キャラクター製品を販売したり、新しいカードのプレビューのために謎解きゲームを用意したりすること)に感心したわけではない。私はあくまでカードの中のフレイバーに感銘を受けたのであり、その進化に驚いたのだ。

この記事の題名には「メルヴィン的」とあるので、誤解を招かないようにその意味を詳しく説明する必要があるだろう。この題名に至った経緯には、今回私が取り扱うテーマの性質がよく表れている。

よく知られているように、R&Dはプレイヤー類型という概念を用いて、マジックのプレイヤーを心理学的な側面からティミー、ジョニー、スパイクという3種類に、そして美学的な側面からヴォーソスとメルヴィンという2種類に分類している。これらのうち、ヴォーソスという類型はDaily MTGのライターでもあったアーティストのMatt Cavottaが考案したものだ。

Matt Cavottaの記事※1では、ヴォーソスは(やや誇張されて)以下のように紹介されている。

ヴォーソスっていったいなんだ?

ヴォーソス(彼の本当の名前はジョンだけど、仲間にすでにジョニーがいたので、彼は16レベルのハーフエルフのレンジャー/ウォーメイジの名前を使うことにした)は「正しくないから」という理由でデッキに同じ伝説のカードを2枚以上入れようとしない人物だ。

彼は、それを「Bone Crank」と呼びたいがために、アイスエイジ版の《氷の干渉器/Icy Manipulator》を使う人だ。彼はフォールン・エンパイアの劣悪な絵違いのカードを使おうとしない。ヴォーソスは絵が好きでカードを集め出し、マジックの小説を読み、カードの中にお気に入りのキャラクターが登場しているのを見て、遊び方を学んだ人だ。世の中にはたくさんのヴォーソスがいる。カードは集めるが、たぶんプレイはしない人。自分のカードにアーティストのサインをもらうのを楽しみにする人。結末がばらされてしまうのを恐れて、小説を読み終えるまでフレイバー・テキストを読まない人。ヴォーソスはマジックについて、プレイしていないときでも楽しめるものだと理解している。


そして、この記事に書かれたヴォーソスの美学的な鏡像としてマローが新たに設定したのが、メルヴィン(メル)という類型だ。

当初、私はこの記事を「ヴォーソス的」から始まる題名で構想していたが、ある時点で私が書こうとしているものがMatt Cavottaやマローのいう「ヴォーソス的」なるものからあまりにかけ離れていることに気づいた。私はフレイバーについて書きたいと思っているが、フレイバー・テキストについて書きたいわけではない。また、ヴォーソスを喜ばせるような素晴らしくフレイバーに満ちたカードのリストを作ることも今回の目的ではない(それ自体は有意義な行為だ)。

端的に述べるなら、マジックに復帰した私を驚かせたのは、フレイバーそのものではなくフレイバーをメカニズムとして扱う技術の進歩だったのだ。つまり、どんなフレイバーやストーリーを表現しているかということではなく、どのようにフレイバーやストーリーを表現しているかということが、昔とは比べものにならないほど高度になっていると感じたのだ。

たとえるなら、絵画に描かれた世界ではなく、絵画の材料である絵の具について書くのがこの記事の主旨だ。そして、絵の具の技術的進歩を時系列順に整理することによって新しい時代の絵画の特徴について議論することができるようになれば、私の構想は概ね達成されたことになる。

念のため申し上げておくと、私はフレイバーそのものに興味がないわけではなく、マジックのストーリーを追いかけ、尊敬するアーティストが何人もいるという程度にはヴォーソス的だ(ヴォーソスとメルヴィンは対立概念ではなく、両立可能な態度だとマローも述べている※2)。しかし、今回の記事の内容はフレイバーを愛でる行為とは明らかに異なるため、メルヴィン的なフレイバーという矛盾した響きを持つテーマ設定になった。私はこれが矛盾しているとは思っていないが、もしもあなたがこの記事を読んで別な考えを持ったなら、ぜひその意見を聞かせてほしい。

※1……https://magic.wizards.com/en/articles/archive/snack-time-vorthos-2005-08-31(Snack Time with Vorthos)
※2……https://mtg-jp.com/reading/mm/0015666/(ヴォーソスとメル(メルヴィン)
/Vorthos and Mel)

名前

稲妻/Lightning Bolt  (赤)
インスタント LEA, コモン
クリーチャー1体かプレインズウォーカー1体かプレイヤー1人を対象とする。稲妻はそれに3点のダメージを与える。

ジェイムデー秘本/Jayemdae Tome  (4)
アーティファクト LEA, アンコモン
(4),(T):カードを1枚引く。


もはや疑問にすら思われないこととして、あらゆるマジックのカードには名前が書かれている。カードには名前がなければならないというこの原則は、マジックの子孫と呼べるゲームにはほとんど間違いなく受け継がれているが、卓上ゲームの世界全体から見れば、こうした原則は特に普遍的なものではない。名前の代わりに通し番号が書かれたカード、アイコンが描かれたカード、あるいはそれすらもなく、絵だけが描かれたカードなど、マジックとは異なる設計思想のカードを使うゲームは数えきれないほど存在する。

ならば、どうしてマジックのカードには名前が書かれているのだろうか? ごく単純には、それが無限に拡張されうるゲームだからだろう。1万8000種類を超える(そしてこれからも増え続けていく)マジックのカードに全く名前が書かれていないという世界は、想像するだけで悪夢そのものだ。

ところで、カードの名前にはカード同士を区別するという基本の機能に加えて、カードが表している背景世界の事物を示すという機能もある。たとえば、《稲妻/Lightning Bolt》がもたらす3点のダメージは、炎によるダメージでもなければ、鈍器によるダメージでもない。それは放電現象によるものでしかありえず、その理由はカードの名前にそう書いてあるからだ。

多くの場合、名前はカードにフレイバーという情報をつけ加えているだけではなく、むしろ情報を整理してプレイヤーの理解を助ける役割を果たしている。あるカードを場に出すと、1ターンに1度、4つの資源を支払って1枚のカードを手に入れることができるようになる。こうした抽象的な説明を補助するために、マジックでは伝統的に《ジェイムデー秘本/Jayemdae Tome》といった名前を使う。このカードの名前には、これを持っているだけでは効果がないこと、読み解くには労力が必要なこと、何度も繰り返し読めることといった多くの情報が圧縮されている。

銀枠世界を除けば、マジックのカードやデッキや勝利点は、マジックの背景にあるファンタジー世界の事物に可能な限り翻訳されなければならない。そして、その最も基本的な表現形式がカードの名前なのだ。

恐怖

恐怖/Terror  (1)(黒)
インスタント LEA, コモン
アーティファクトでも黒でもないクリーチャー1体を対象とし、それを破壊する。それは再生できない。


私の考えでは、フレイバーをデザインに活用するとき、それは大まかに2つの方向性に分けられる。《恐怖/Terror》はそのうちのひとつを象徴するカードだ。

《恐怖/Terror》を初めて手にするユーザーは、まずルール文章としてこのカードのテキストを読み、不思議な対象制限があるものの、多くの脅威に対処できる除去呪文だと認識する。そして、改めてこのいびつな制限の意味を考える。アーティファクト・クリーチャーと黒いクリーチャーに共通する要素とは何か? この呪文はどのようにしてクリーチャーを絶命させるのだろうか?

次の瞬間、ユーザーはこの呪文がクリーチャーの恐怖心を煽って息の根を止めるのだと理解する。機械には感情がなく、怪物は怪物に恐怖心を抱かないため、《恐怖/Terror》で倒すことができないのだ。そして最後には、単なる用語の羅列に見えていたこのテキストが、意外にも芳醇なフレイバーを持っていたことに思い至る。

すべてのユーザーが同じように考えるわけではないが、《恐怖/Terror》に描かれたフレイバーは概ねこのような構造を持っている。すなわち、このカードが持っているゲーム上の機能が、結果的にユーザーの頭の中にフレイバーを呼び起こすのだ。

《恐怖/Terror》のテキストのそれぞれの語句は紛れもないルール用語であり、単純にこのカードの挙動が書かれているにすぎない。しかしながら、このカードがゲームでなすことから総合的に類推すると、結果的にこのカードが何を意図して作られたものなのかが明らかになる。

このような方法で描かれるフレイバーを、ここでは便宜的に「間接的フレイバー」と呼ぶことにしたい。この手法は珍しいものではなく、むしろ黎明期からあるきわめて基本的なフレイバーの表し方だといえる(飛行もそのひとつだ)。ユーザーは、カードに書かれた言葉自体ではなく、カードがどのように動くかによってフレイバーを認識する。フレイバーに対するこの機能主義的な態度は、程度の差こそあれ、現在に至るまでのあらゆるセットで見られるものだ。

サブタイプ

巨大戦車/Juggernaut  (4)
アーティファクト・クリーチャー ― 巨大戦車 LEA, アンコモン
各戦闘で、巨大戦車は可能なら攻撃する。
巨大戦車は壁によってはブロックされない。
5/3

津波/Tsunami  (3)(緑)
ソーサリー LEA, アンコモン
すべての島を破壊する。


《恐怖/Terror》に代表される「間接的フレイバー」の対極にあるものは? 私の考えでは、それは《巨大戦車/Juggernaut》や《津波/Tsunami》だ。

巨大戦車は壁によっては妨げられ(ブロックされ)ない、すべての島を破壊する、といったテキストは、ルール用語であると同時にマジックの外の世界でも通用する自然言語でもある。こうした離れ業が可能なのは、これらのカードが壁や島という作為的に選ばれたサブタイプを参照しているからだ。

「間接的フレイバー」と比較してみると、《巨大戦車/Juggernaut》や《津波/Tsunami》が表しているフレイバーには、ルール文章との距離がほとんど存在しない。《巨大戦車/Juggernaut》は壁で防ぐことができない機械であり、カードにもそう書いてある。《津波/Tsunami》は島をことごとく破壊する呪文であり、カードにもそう書いてある。こうしたカードはあたかもゲームで実際に機能するフレイバー・テキストを持つかのようであり、遠回しなルールの読解力を必要としない。そのため、「直接的フレイバー」と呼ぶにふさわしい。

しかしながら、「直接的フレイバー」は、美しい見た目に反して非常に扱いづらい。ドミナリアで再録された《巨大戦車/Juggernaut》の下の段落が実際にゲームで起こすことは何か? おそらく、このセットでただ1種類の壁である《悠久の壁/Amaranthine Wall》に対峙したときと、相手のクリーチャーを《氷結/Deep Freeze》させたときにわずかに得をするだけだろう。ならば《津波/Tsunami》は? 破壊的すぎて現代のマジックには受け入れられない。

この種のフレイバーはコントロールが難しく、美しさと楽しさが同居することは奇跡に近い。とはいえ、私が見る限り、R&Dは現在に近づくほど「直接的フレイバー」を有効に扱えるようになっている。

機械仕掛けの獣

機械仕掛けの獣/Clockwork Beast  (6)
アーティファクト・クリーチャー ― ビースト LEA, レア
機械仕掛けの獣はその上に+1/+0カウンターが7個置かれた状態で戦場に出る。
戦闘終了時に、この戦闘で機械仕掛けの獣が攻撃かブロックした場合、それから+1/+0カウンターを1個取り除く。
(X),(T):機械仕掛けの獣に+1/+0カウンターを最大X個まで置く。この能力は、機械仕掛けの獣の上の+1/+0カウンターの総数を8個以上にすることはできない。 この能力は、あなたのアップキープの間にのみ起動できる。
0/4


ルール用語による詩である「間接的フレイバー」の例に漏れず、《機械仕掛けの獣/Clockwork Beast》に書かれた長いテキストは、それぞれがゼンマイ式自動機械の挙動をマジックに再現するために設定されている。最初期のアーティファクトを象徴するこのクリーチャーは、同時に「間接的フレイバー」の偉大なる反面教師でもある。

《機械仕掛けの獣/Clockwork Beast》のようなデザインの欠点は、正確を期すために大量の例外則を書く必要があることだ。結局、アンティキティーとホームランドでこのクリーチャーのよく似た亜種が3種類作られた後、数年後のミラディンではカウンターの上限や起動タイミングの制限が取り払われた亜種が作られた。それらはそもそもゼンマイを巻き直せなかったり、全く逆に戦闘中にすらゼンマイを巻くことができたり、巻くことができる回数に限界がなかったりと、正確さからは程遠い代物になったが、少なくともデザイナー側が手当たり次第に予防線を引いた《機械仕掛けの獣/Clockwork Beast》のような人為的な使いづらさは払拭されている。

《機械仕掛けの獣/Clockwork Beast》から得られる教訓は、おそらくこのようなものだろう——正しさと楽しさを天秤にかけるなら、必ず後者を取るべし。デザイナーは「間接的フレイバー」の美学の奴隷になってはならない。

しかしながら、黎明期のマジックにはこうした過剰に正確なフレイバーがあふれていたのだ。《機械仕掛けの獣/Clockwork Beast》の亜種のみならず、機体の先祖である《Phantasmal Mount》や《Heart Wolf》にも、かつてのR&Dにとってのフレイバーの性質がよく表れている。

ボールドウィアの威嚇者

ボールドウィアの威嚇者/Boldwyr Intimidator  (5)(赤)(赤)
クリーチャー ― 巨人・戦士 FUT, アンコモン
臆病者は戦士をブロックできない。
(赤):クリーチャー1体を対象とする。それはターン終了時まで臆病者になる。
(2)(赤):クリーチャー1体を対象とする。それはターン終了時まで戦士になる。
5/5


《巨大戦車/Juggernaut》から約14年後、未来予知で《ボールドウィアの威嚇者/Boldwyr Intimidator》が印刷された。未来から来た(という設定の)このカードは、そのわずか翌年のモーニングタイドで再録された。しかしながら、このカードが「直接的フレイバー」にもたらした変化は、モーニングタイドよりもさらに先の未来を変えたように思えてならない。

このカードのテキストは画期的だ。伝統的なマジックのカードでは、クリーチャーにブロック制限を与えたければ(当然ながら)クリーチャーにブロック制限を与える。ところが、このカードは代わりにクリーチャーを臆病者という専用のクリーチャー・タイプにし、別な常在型能力で改めて臆病者にブロック制限を与えるという奇妙な方法を用いている。

《ボールドウィアの威嚇者/Boldwyr Intimidator》だけを見れば、こうした記述は見た目に楽しいだけで、不必要に回りくどいものに思える。しかしながら、このカードは「直接的フレイバー」を用いてオブジェクトに自由に呼び名(臆病者)がつけられることを発見し、新しいメカニズムへの応用可能性を提示した。そして、それはモーニングタイドのはるか未来のマジックで頻繁に使われる技術となった。

もうひとつ、このカードに興味深い点があるとすれば、R&Dがそうしたフレイバーによる遊びを自覚的に始めたという点だろう。新しいカードを作るために、新しい文体を使ってもよい。これもまた、《ボールドウィアの威嚇者/Boldwyr Intimidator》が発見した重要な事実だ。



悲劇的な過ち/Tragic Slip  (黒)
インスタント DKA, コモン
クリーチャー1体を対象とする。それはターン終了時まで-1/-1の修整を受ける。
陰鬱 ― このターン、クリーチャーが死亡していた場合、代わりにそのクリーチャーはターン終了時まで-13/-13の修整を受ける。

百手巨人/Hundred-Handed One  (2)(白)(白)
クリーチャー ― 巨人 THS, レア
警戒
(3)(白)(白)(白):怪物化3を行う。(このクリーチャーが怪物的でない場合、これの上に+1/+1カウンターを3個置く。これは怪物的になる。)
百手巨人が怪物的であるかぎり、これは到達を持つとともに、各戦闘でさらに99体のクリーチャーをブロックできる。
3/5


ハイ・ファンタジーの世界を表現するために、誰が数を使うことを思いつくだろうか? これらのカードは、フレイバーに満ちたテキストを作るために、文学的な言葉どころかたった2つの数字が役に立つことを示す事例だ。

こうした手法の興味深い点は、カードの効果の範囲を操作してフレイバーを表している(おそらく「間接的フレイバー」に分類できる)にもかかわらず、効果の全体像には何ら影響がないことだ。機能的には、陰鬱を達成した《悲劇的な過ち/Tragic Slip》が《殺害/Murder》になってはならない理由はない。多少の差に目をつぶれば、2つの効果はどちらもクリーチャーを確実に死亡させるもので、13という数がゲームに意味のある影響を与えることはほとんどない。

しかし、《悲劇的な過ち/Tragic Slip》で数を使うことは、単にクリーチャーを破壊することよりも明らかにフレイバーにあふれた行為だ。典型的なホラー映画では、前半の楽しげな人物紹介が終わると脚本家が次々に彼らを葬っていく時間帯が始まり、スクリーンに映った役者の些細な行動すべてが彼らの命に関わるものになる。陰鬱の後に書かれた13という数は、カードの背景にあるこうした文脈を連想させるには十分すぎるものだ。

余談だが、フレイバーのために数を使うことは、どこか必要以上に効果を大げさに感じさせる性質がある。《百手巨人/Hundred-Handed One》がブロックできるクリーチャーは《希望の化身/Avatar of Hope》よりもずっと少ないはずだが、《百手巨人/Hundred-Handed One》の方がばかげたカードに感じられるのは不思議なことだ。マジックのユーザーにとっては、13や99よりも無限大の方がより身近な概念なのかもしれない。

(後編に続く)

コメント

linden haus
2018年6月26日12:59

面白すぎ

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