欠色
私が最初に戦乱のゼンディカーについて書いたとき※1、その目的は魅力に乏しい能力である嚥下を有意義なものに変えることだった。その課題は前回までの記事で概ね達成されたと感じているが、このセットには未だ無意味な能力が残されている。章題が示す通り、それは欠色だ。
マローによるデザイン演説※2やストーム値に関する記事※3には、この能力が生まれるに至った経緯とその評価が書かれている。それによると、欠色はあるカードがエルドラージのものであるということを表すための目印であり、かつて使った部族というメカニズムの代替物としてこのブロックに欠かせないものだという。ところが、それがキーワード能力の姿をしているせいでユーザーの不満を買ったため、再登場することがあれば欠色をルール文章の中に「書き下す」ことになるらしい。
確かに、キーワード能力や能力語をデザインすることは、セットが注目しているものを総合ルールに直接書き加える行為であるため、その他の要素のデザインに比べてやや責任の重い工程だといえる。したがって、マローが述べた通り、欠色を現実に印刷されたものよりもわずかに目立たないようにするだけで、この能力を目にして落胆するユーザーを実際よりもずっと少なくすることができたに違いない。
しかしながら、仮に欠色をテキストの中に「書き下す」ことになったとしても、このメカニズムの欠点が完全に消えるわけではない。私の考えでは、欠色の本質的な問題とは有色のカードを無色にするという矛盾した性質それ自体にあり、能力の外見は枝葉末節にすぎない。
思うに、マジックの基本原則をないがしろにしてまで欠色を使うのであれば、R&Dはその対価に見合うデザイン上の必然性をユーザーに示す必要があったのだ。現状では、欠色はデザイナーのための都合のいい道具にすぎず、エルドラージとその呪文を識別するという小さな目的のために、あまりにも大きな法則を乱しているように見える。
とはいえ、私は欠色を嚥下のように戦乱のゼンディカー・ブロックから削除するべきだとは思わない。この記事での私の目的は、現状では単なる目印にすぎない欠色を、(本当の意味で)メカニズムにすることだ。そして、そのためには欠色自体に手を加える必要はないと思われる。
※1……http://casualmtg.diarynote.jp/201602271838453600/
※2…… http://mtg-jp.com/reading/translated/mm/0017420/(デザイン演説2016/State of Design 2016)
※3……http://mtg-jp.com/reading/translated/mm/0018047/(ストーム値:『ゼンディカー』『戦乱のゼンディカー』ブロック/Storm Scale: Zendikar and Battle for Zendikar)
無色、欠色、有色
エルドラージというクリーチャー・タイプの代用品として生み出された欠色は、にもかかわらず他ならぬ色に関する能力でもある。戦乱のゼンディカー・ブロックの完結を経てもなお、サブタイプとも色ともつかないこの奇妙なねじれの意味が回収されることはなく、この能力の周囲にあるデザイン空間は、今やR&Dの失敗の歴史のひとつとして葬り去られようとしている。
デュエルデッキで欠色が《殺戮の先陣/Forerunner of Slaughter》や《威圧ドローン/Dominator Drone》とともに公開されたとき、私はR&Dがきわめて難しいことに挑戦しているのだと感じた。この能力は何もしないように見えるものの、キーワードと専用の枠まで用意されているのだから、何か隠されたデザイン的魅力があるに違いない。この常識はずれの、無意味な、自己矛盾した能力に見合うだけのデザインとはいかなるものなのか?
私はその先のプレビュー・ウィークが素晴らしいものになることを期待していたが、周知の通りそれは肩透かしに終わり、ついにはこの能力が単なる目印でしかないことが明かされた。私はしばらくの間落胆していたが、少し経つとR&Dは何をするべきだったのかを考えるようになった(そしてこのブログを作った)。
現在の私はというと、欠色を目印以上の存在に変えるためにするべきことはそれほど多くないと考えている。そのためには、戦乱のゼンディカー・ブロックに数えきれないほど存在する欠色のカードと無色を参照するカードの中に、欠色をメルヴィン的に感じさせるカードをわずかに加えるだけで済むはずだ。
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157462474869/a-drone-that-turns-completely-colorless
これは非常に乱暴なアイデアで、パワー・レベルに至っては不適切ですらあるかもしれない——が、それでも上記の私の発想を最も端的に表したカードだといえる。《骨ばった強兵/Bony Trooper》は、他の欠色を持つカードに(本来存在しないはずの)デザイン的な役割を与えるというアイデアの荒削りな試作品だ。
《骨ばった強兵/Bony Trooper》のようなカードが採用された世界では、欠色は相変わらず単体では何もしないものの、2枚集まると特定の欠色のカードを劇的に軽くするという新たな役割を得る。さらに重要なのは、このカードを唱えるために有色のマナが不要になり、欠色の《骨ばった強兵/Bony Trooper》が名実ともに完全な無色のカードに変化することだ。そのため、あらゆる欠色のカードが、特定の欠色のカードを無色にするというメルヴィン的な存在価値を手に入れることになる。
こうしたデザインを指すR&Dの用語があるかどうかはわからないが、もしも存在しないのであれば「事後正当化」デザインとでも名づけてみたい。《骨ばった強兵/Bony Trooper》は実際に欠色の後に作られており、それがなければ生み出されることのなかったアイデアだが、矛盾に満ちた欠色の性質が(デザイナーの気まぐれではなく)周到な計画に基づいているかのように錯覚させる働きをしている。
余談だが、プレイヤーに呪文を何度も唱えさせてマナ・コストを軽くするという点で、《骨ばった強兵/Bony Trooper》はゲートウォッチの誓いの怒濤によく似ている。私はこのカードを怒濤に近づけすぎないためにマナ・コストを(0)ではなく(4)に変えるアイデアも検討したが、マナの色を補助する能力はエルドラージにふさわしくないという考えから採用しなかった。結局、かつてのエルドラージ・カード(《この世界にあらず/Not of This World》など)を想起させるという理由で、また、なによりも能力の派手さから、《骨ばった強兵/Bony Trooper》は新たなエルドラージのピッチスペルになり、同時にきわめて危険なカードになった。
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157506787952/which-is-appropriate-for-bfz-maro-said-the
特定のアーキタイプを補助するカードを作るために、ときにはデメリットが必要になることもある。《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》はインベイジョンの《翡翠のヒル/Jade Leech》が持つ能力をより過激にして作られたカードだ。
非常に短いテキストながら、このカードが欠色を「事後正当化」する働きは申し分ない。《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》は、唱えられる際に緑マナを要求するものの、戦場に出た後はデッキに入っているあらゆる緑のカードを唱えられなくしてしまう。しかしながら、この能力は緑マナを要求する欠色のカードには全く影響しないため、《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》は欠色ばかりを詰め込んだデッキを組むよう遠回しにユーザーに働きかけるカードになっている。
興味深いのは、このカードと同時代の緑を含む楔のカード(《包囲サイ/Siege Rhino》など)が相容れない反面、色を増やす戦略との相性は決して悪くないということだ。戦乱のゼンディカーが加わることで、スタンダード環境はかつてないほど多色化が進んだが、このカードが持つデメリットはタルキール覇王譚ブロックで成立したものとは別な方向性の多色のデッキを生んだ可能性がある。
緑のカードを唱えられなくするというアイデアを飛躍させて、レジェンドの《Quarum Trench Gnomes》に似た方法で緑マナを無色に変えるバージョンも試みた。結果として、新しいテキストでは欠色を「事後正当化」することはできなくなったが、次のセットの無色マナをコストに持つエルドラージとシナジーを形成するようになった。
最初のバージョンのように欠色のデッキを補助することはなくなったものの、依然として《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》は欠色がどのような存在で、なぜ無色「そのもの」ではないのかを(どちらかというとヴォーソス的に)説明する役割を果たしている。プレイヤーは欠色を持つカードのために有色のマナを支払うが、どういうわけかそのマナは脱色され、唱えられた呪文は無色になってしまう。それは、彼らがエルドラージの巨人の到来に備えて有色のマジックの世界を無色に変える工兵だからであり、そうした彼らの破壊活動の瞬間をとらえたのがこの《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》なのだ。
無色、単色、多色
ところで、私が欠色について考えるときには、新たなるファイレクシアで登場したファイレクシア・マナのことが念頭にある。発売から6年以上が経った今でもこのメカニズムには(パワー・レベルやカラー・パイの問題から)賛否両論があるが、私はこれをアーティファクトの次元のメカニズムとしてはこれ以上望めないものだと考えている。
ファイレクシア・マナが優れているのは、有色のアーティファクトにデザイン上の意義を与え、なおかつファイレクシア的に感じさせるという込み入ったデザイン上の問題を、たったひとつのアイデアでいとも簡単に解決してしまっているからだ。本来無色であるはずのアーティファクトになぜ色が必要なのかという問いに対して、それが無色と有色のマナ・コストを両方持っているからだ、と答えることよりも簡潔で腑に落ちる返答はありえない。加えて、そのためにプレイヤーの命という代替コストを要求することも、ミラディンの新たな支配者にふさわしい。
すでにエルドラージと追放について述べ、無色と欠色についても述べた私に作るべきカードが残されているとすれば、本質的には関連のないこれらの要素すべてをつなぎ合わせる、ファイレクシア・マナのようなデザインがそれにあたるだろう。印刷されたエルドラージの諸要素はトップダウン・デザインに近く、メカニズム的に整理されているとは言い難いが、ここまで示してきた通り、それらがすべて計算ずくで選ばれたかのように「事後正当化」することは決して不可能ではないはずだ。
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157548838771/beat-the-wedge-decks
私がこの奇妙なテキストに至る過程で最初に考えたのは、無色と追放領域を結びつける仕組みだった。戦乱のゼンディカー・ブロックを除けば、マジックの歴史において無色と追放領域が特別に結びついていたことはない。かつて私は無色と追放領域の間のデザイン空間を調べたことがある※が、結局のところ特異な方法でカードを追放するテキストを見つけても、それが無色と不可分なものだと断言することはできなかった。
裏を返せば、それは無色と追放領域を関連づけるためには少々強引な手続きが必要だということを意味している。試行錯誤の末、私はもしも無色とカードを追放する効果が分かち難い関係だったなら、という(事実に反する)仮定を置くことにした。マジックの世界の必然的な現象として無色がカードを追放するのなら、おそらくその反対側では有色が別な効果を持っているはずだ。そして、その中間では色の数によって効果が段階的に設定されているに違いない。《超常的直観/Paranormal Intuition》で私が意図したのは、そうした現実にはありえない色の役割を、カードによって「捏造」することだった。
無色から多色に至るカラー・パイの階調はあくまで私が仮定したものにすぎないため、そうした複数の出力結果が得られるようにカードのテキストに細工をしなければならない。モードや条件節を持つ呪文にすることは簡単だったが、欠色をより明確に「事後正当化」するためには、無色にも有色にもなりうるひとつの効果を考えることが最善に思われた。その結果生まれたのが、クリーチャーの色を参照し、その数に応じてカラー・パイを決定する、この奇妙なインスタントである。
あなたが(エルドラージをはじめとする)無色のクリーチャーで攻撃しているときに唱えれば、《超常的直観/Paranormal Intuition》は対戦相手の手札を追放する無色の効果を持つ。反対に、あなたが対戦相手の有色のクリーチャーによって攻撃されているのなら、《超常的直観/Paranormal Intuition》は自分の手札を入れ替える青の伝統的な呪文に姿を変える。言うまでもなく、このカードが最も活躍するのはスタンダード環境でタルキール覇王譚の楔のクリーチャーと対峙した際で、わずかなマナで圧倒的な手札の優位をもたらしてくれることだろう。
《超常的直観/Paranormal Intuition》は決して美しくないアイデアで、テキストから何をするカードなのかを読み取ることすら難しい。しかしながら、無色と有色の効果を行き来する呪文ほど欠色にふさわしいものはなく、それでいて意外にも短いテキストにまとまったことから、私はこのカードをとても気に入っている。
※……http://casualmtg.diarynote.jp/201604070027176861/
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157590648752/beat-the-wedge-decks
無色から多色まで効果が段階的に変わるカードをデザインするためには、何かを追放する効果ともう片方の効果の間に何らかの関連性を与えることが必要になる。それを実現するための最も単純な方法は、《超常的直観/Paranormal Intuition》のように追放したオブジェクトを(色の数に応じて)補充することだが、そのデザイン空間は決して広くはない。私が考える限りでは、カードの形で存在しているオブジェクトのうち、簡単に増減させられるものは手札と土地が限界で、それ以上はデザイン上の危険が伴うと思われる。
こうした経緯から、私は《超常的発火/Paranormal Combustion》を作ることにした。追放するものは《超常的直観/Paranormal Intuition》と全く同じだが、追放したカードのマナ・コストを参照することで、無色の追放効果の反対側にカード以外のリソース(ダメージやライフなど)を扱う効果を置くことができる。
《超常的発火/Paranormal Combustion》はウルザズ・レガシーの《紅蓮術/Pyromancy》を思わせる火力呪文だ。本家(およびその亜種)との重要な違いは、対象になったクリーチャーの色の数によってマナ・コストを参照する回数が決まることで、多色のクリーチャーならばダメージが倍増し、無色のクリーチャーならばダメージが0になる。そのため、自分の無色のクリーチャーを対象にすれば、《超常的直観/Paranormal Intuition》と同じように無色のデッキ専用の手札破壊として運用することもできる。
最後につけ加えると、《超常的直観/Paranormal Intuition》と《超常的発火/Paranormal Combustion》が欠色を「事後正当化」する仕組みは《骨ばった強兵/Bony Trooper》によく似ている。すでに説明したように、これら2枚のカードは対象にしたクリーチャーの色の数によってカラー・パイを決定するため、欠色のクリーチャーを対象にすると無色の効果を得る。このことを裏返せば、対象となった欠色のクリーチャーが、(無色にも有色にもなりうる)これらのカードを名実ともに無色にしているということを意味する。
そして、それをより広い視野で見れば、このセットに含まれるあらゆる欠色のクリーチャーが、特定の欠色のカードを無色に変える役割を持っているということになる。仮に人々がそう納得してくれたなら、エルドラージ・ドローンが単なる目印として無色にされているのではなく、曲がりなりにもメルヴィン的な目的を与えられていると証明できたことになるだろう。
魅力的なメカニズム
横暴にも戦乱のゼンディカーのエルドラージに異を唱え、すでに発売から2年以上が経ったセットのカードを新たに20枚近くも考えるという不毛な行為を通して、私の頭に浮かんだひとつの考えがある。それは、メカニズムが失敗するときには、必ずデザインも失敗しているというものだ。
メカニズムはそれ単体で存在しているわけではなく、どんな形であれカードの中に書かれている。それゆえ、たとえメカニズムを作る過程で失敗したとしても、それをカードの形に仕上げる段階において、常にメカニズムの失敗を補うだけの魅力的なデザインを発明する余地が残されている。
今回のテーマである、欠色を「事後正当化」するカード群もそれを目的に作られたものだが、現実に印刷されたカードにも同様の例は存在する。たとえば、破滅の刻きっての優秀なクリーチャーである《機知の勇者/Champion of Wits》は、ニコル・ボーラスが秘密の目的のためにミイラの軍隊を作り出すことを示した、トップダウン的で必然性の薄いキーワード能力の細部を利用して、カードの側でメカニズムを意義あるものに変化させた例だといえる。
優れたメカニズムが用意されているのなら、魅力的なカードを作ることはたやすい。反対に、メカニズムに問題があるのなら、それを使うデザイナーにはいっそうの工夫が求められる。
おそらく、これこそがこの失敗だらけのセットに私が2年以上も固執している理由なのだろう。メカニズムが失敗しているときにこそ、想像力が必要とされ、そして私はカードを想像することが趣味のユーザーなのだ。
すなわち、誠に傲慢ながら、私にとって戦乱のゼンディカーのメカニズムは魅力的なのだ。たとえそれがいかに魅力的でないとしても。
私が最初に戦乱のゼンディカーについて書いたとき※1、その目的は魅力に乏しい能力である嚥下を有意義なものに変えることだった。その課題は前回までの記事で概ね達成されたと感じているが、このセットには未だ無意味な能力が残されている。章題が示す通り、それは欠色だ。
マローによるデザイン演説※2やストーム値に関する記事※3には、この能力が生まれるに至った経緯とその評価が書かれている。それによると、欠色はあるカードがエルドラージのものであるということを表すための目印であり、かつて使った部族というメカニズムの代替物としてこのブロックに欠かせないものだという。ところが、それがキーワード能力の姿をしているせいでユーザーの不満を買ったため、再登場することがあれば欠色をルール文章の中に「書き下す」ことになるらしい。
確かに、キーワード能力や能力語をデザインすることは、セットが注目しているものを総合ルールに直接書き加える行為であるため、その他の要素のデザインに比べてやや責任の重い工程だといえる。したがって、マローが述べた通り、欠色を現実に印刷されたものよりもわずかに目立たないようにするだけで、この能力を目にして落胆するユーザーを実際よりもずっと少なくすることができたに違いない。
しかしながら、仮に欠色をテキストの中に「書き下す」ことになったとしても、このメカニズムの欠点が完全に消えるわけではない。私の考えでは、欠色の本質的な問題とは有色のカードを無色にするという矛盾した性質それ自体にあり、能力の外見は枝葉末節にすぎない。
思うに、マジックの基本原則をないがしろにしてまで欠色を使うのであれば、R&Dはその対価に見合うデザイン上の必然性をユーザーに示す必要があったのだ。現状では、欠色はデザイナーのための都合のいい道具にすぎず、エルドラージとその呪文を識別するという小さな目的のために、あまりにも大きな法則を乱しているように見える。
とはいえ、私は欠色を嚥下のように戦乱のゼンディカー・ブロックから削除するべきだとは思わない。この記事での私の目的は、現状では単なる目印にすぎない欠色を、(本当の意味で)メカニズムにすることだ。そして、そのためには欠色自体に手を加える必要はないと思われる。
※1……http://casualmtg.diarynote.jp/201602271838453600/
※2…… http://mtg-jp.com/reading/translated/mm/0017420/(デザイン演説2016/State of Design 2016)
※3……http://mtg-jp.com/reading/translated/mm/0018047/(ストーム値:『ゼンディカー』『戦乱のゼンディカー』ブロック/Storm Scale: Zendikar and Battle for Zendikar)
無色、欠色、有色
エルドラージというクリーチャー・タイプの代用品として生み出された欠色は、にもかかわらず他ならぬ色に関する能力でもある。戦乱のゼンディカー・ブロックの完結を経てもなお、サブタイプとも色ともつかないこの奇妙なねじれの意味が回収されることはなく、この能力の周囲にあるデザイン空間は、今やR&Dの失敗の歴史のひとつとして葬り去られようとしている。
デュエルデッキで欠色が《殺戮の先陣/Forerunner of Slaughter》や《威圧ドローン/Dominator Drone》とともに公開されたとき、私はR&Dがきわめて難しいことに挑戦しているのだと感じた。この能力は何もしないように見えるものの、キーワードと専用の枠まで用意されているのだから、何か隠されたデザイン的魅力があるに違いない。この常識はずれの、無意味な、自己矛盾した能力に見合うだけのデザインとはいかなるものなのか?
私はその先のプレビュー・ウィークが素晴らしいものになることを期待していたが、周知の通りそれは肩透かしに終わり、ついにはこの能力が単なる目印でしかないことが明かされた。私はしばらくの間落胆していたが、少し経つとR&Dは何をするべきだったのかを考えるようになった(そしてこのブログを作った)。
現在の私はというと、欠色を目印以上の存在に変えるためにするべきことはそれほど多くないと考えている。そのためには、戦乱のゼンディカー・ブロックに数えきれないほど存在する欠色のカードと無色を参照するカードの中に、欠色をメルヴィン的に感じさせるカードをわずかに加えるだけで済むはずだ。
骨ばった強兵/Bony Trooper (3)(赤)
クリーチャー ― エルドラージ・ドローン
欠色(このカードは無色である。)
このターン、あなたが2つ以上の無色の呪文を唱えていた場合、あなたは骨ばった強兵のマナ・コストを支払うのではなく(0)を支払ってもよい。
速攻
3/2
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157462474869/a-drone-that-turns-completely-colorless
これは非常に乱暴なアイデアで、パワー・レベルに至っては不適切ですらあるかもしれない——が、それでも上記の私の発想を最も端的に表したカードだといえる。《骨ばった強兵/Bony Trooper》は、他の欠色を持つカードに(本来存在しないはずの)デザイン的な役割を与えるというアイデアの荒削りな試作品だ。
《骨ばった強兵/Bony Trooper》のようなカードが採用された世界では、欠色は相変わらず単体では何もしないものの、2枚集まると特定の欠色のカードを劇的に軽くするという新たな役割を得る。さらに重要なのは、このカードを唱えるために有色のマナが不要になり、欠色の《骨ばった強兵/Bony Trooper》が名実ともに完全な無色のカードに変化することだ。そのため、あらゆる欠色のカードが、特定の欠色のカードを無色にするというメルヴィン的な存在価値を手に入れることになる。
こうしたデザインを指すR&Dの用語があるかどうかはわからないが、もしも存在しないのであれば「事後正当化」デザインとでも名づけてみたい。《骨ばった強兵/Bony Trooper》は実際に欠色の後に作られており、それがなければ生み出されることのなかったアイデアだが、矛盾に満ちた欠色の性質が(デザイナーの気まぐれではなく)周到な計画に基づいているかのように錯覚させる働きをしている。
余談だが、プレイヤーに呪文を何度も唱えさせてマナ・コストを軽くするという点で、《骨ばった強兵/Bony Trooper》はゲートウォッチの誓いの怒濤によく似ている。私はこのカードを怒濤に近づけすぎないためにマナ・コストを(0)ではなく(4)に変えるアイデアも検討したが、マナの色を補助する能力はエルドラージにふさわしくないという考えから採用しなかった。結局、かつてのエルドラージ・カード(《この世界にあらず/Not of This World》など)を想起させるという理由で、また、なによりも能力の派手さから、《骨ばった強兵/Bony Trooper》は新たなエルドラージのピッチスペルになり、同時にきわめて危険なカードになった。
荒廃の耕作者/Blight Cultivator (2)(緑)
クリーチャー ― エルドラージ・ドローン
欠色(このカードは無色である。)
あなたは緑の呪文を唱えられない。
荒廃の耕作者のパワーとタフネスはそれぞれ、あなたの手札にあるカードの総数に等しい。
*/*
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157506787952/which-is-appropriate-for-bfz-maro-said-the
特定のアーキタイプを補助するカードを作るために、ときにはデメリットが必要になることもある。《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》はインベイジョンの《翡翠のヒル/Jade Leech》が持つ能力をより過激にして作られたカードだ。
非常に短いテキストながら、このカードが欠色を「事後正当化」する働きは申し分ない。《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》は、唱えられる際に緑マナを要求するものの、戦場に出た後はデッキに入っているあらゆる緑のカードを唱えられなくしてしまう。しかしながら、この能力は緑マナを要求する欠色のカードには全く影響しないため、《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》は欠色ばかりを詰め込んだデッキを組むよう遠回しにユーザーに働きかけるカードになっている。
興味深いのは、このカードと同時代の緑を含む楔のカード(《包囲サイ/Siege Rhino》など)が相容れない反面、色を増やす戦略との相性は決して悪くないということだ。戦乱のゼンディカーが加わることで、スタンダード環境はかつてないほど多色化が進んだが、このカードが持つデメリットはタルキール覇王譚ブロックで成立したものとは別な方向性の多色のデッキを生んだ可能性がある。
荒廃の耕作者/Blight Cultivator (2)(緑)
クリーチャー ― エルドラージ・ドローン
欠色(このカードは無色である。)
あなたがマナを引き出す目的で土地をタップした場合、それは(緑)の代わりに(◇)を生み出す。((◇)は無色マナを表す。)
荒廃の耕作者のパワーとタフネスはそれぞれ、あなたの手札にあるカードの総数に等しい。
*/*
緑のカードを唱えられなくするというアイデアを飛躍させて、レジェンドの《Quarum Trench Gnomes》に似た方法で緑マナを無色に変えるバージョンも試みた。結果として、新しいテキストでは欠色を「事後正当化」することはできなくなったが、次のセットの無色マナをコストに持つエルドラージとシナジーを形成するようになった。
最初のバージョンのように欠色のデッキを補助することはなくなったものの、依然として《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》は欠色がどのような存在で、なぜ無色「そのもの」ではないのかを(どちらかというとヴォーソス的に)説明する役割を果たしている。プレイヤーは欠色を持つカードのために有色のマナを支払うが、どういうわけかそのマナは脱色され、唱えられた呪文は無色になってしまう。それは、彼らがエルドラージの巨人の到来に備えて有色のマジックの世界を無色に変える工兵だからであり、そうした彼らの破壊活動の瞬間をとらえたのがこの《荒廃の耕作者/Blight Cultivator》なのだ。
無色、単色、多色
ところで、私が欠色について考えるときには、新たなるファイレクシアで登場したファイレクシア・マナのことが念頭にある。発売から6年以上が経った今でもこのメカニズムには(パワー・レベルやカラー・パイの問題から)賛否両論があるが、私はこれをアーティファクトの次元のメカニズムとしてはこれ以上望めないものだと考えている。
ファイレクシア・マナが優れているのは、有色のアーティファクトにデザイン上の意義を与え、なおかつファイレクシア的に感じさせるという込み入ったデザイン上の問題を、たったひとつのアイデアでいとも簡単に解決してしまっているからだ。本来無色であるはずのアーティファクトになぜ色が必要なのかという問いに対して、それが無色と有色のマナ・コストを両方持っているからだ、と答えることよりも簡潔で腑に落ちる返答はありえない。加えて、そのためにプレイヤーの命という代替コストを要求することも、ミラディンの新たな支配者にふさわしい。
すでにエルドラージと追放について述べ、無色と欠色についても述べた私に作るべきカードが残されているとすれば、本質的には関連のないこれらの要素すべてをつなぎ合わせる、ファイレクシア・マナのようなデザインがそれにあたるだろう。印刷されたエルドラージの諸要素はトップダウン・デザインに近く、メカニズム的に整理されているとは言い難いが、ここまで示してきた通り、それらがすべて計算ずくで選ばれたかのように「事後正当化」することは決して不可能ではないはずだ。
超常的直観/Paranormal Intuition (1)(青)
インスタント
欠色(このカードは無色である。)
防御プレイヤー1人と攻撃クリーチャー1体を対象とする。そのプレイヤーは、そのクリーチャーの色1色につき、カードを1枚引く。その後そのプレイヤーは自分の手札からカードを1枚追放する。
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157548838771/beat-the-wedge-decks
私がこの奇妙なテキストに至る過程で最初に考えたのは、無色と追放領域を結びつける仕組みだった。戦乱のゼンディカー・ブロックを除けば、マジックの歴史において無色と追放領域が特別に結びついていたことはない。かつて私は無色と追放領域の間のデザイン空間を調べたことがある※が、結局のところ特異な方法でカードを追放するテキストを見つけても、それが無色と不可分なものだと断言することはできなかった。
裏を返せば、それは無色と追放領域を関連づけるためには少々強引な手続きが必要だということを意味している。試行錯誤の末、私はもしも無色とカードを追放する効果が分かち難い関係だったなら、という(事実に反する)仮定を置くことにした。マジックの世界の必然的な現象として無色がカードを追放するのなら、おそらくその反対側では有色が別な効果を持っているはずだ。そして、その中間では色の数によって効果が段階的に設定されているに違いない。《超常的直観/Paranormal Intuition》で私が意図したのは、そうした現実にはありえない色の役割を、カードによって「捏造」することだった。
無色から多色に至るカラー・パイの階調はあくまで私が仮定したものにすぎないため、そうした複数の出力結果が得られるようにカードのテキストに細工をしなければならない。モードや条件節を持つ呪文にすることは簡単だったが、欠色をより明確に「事後正当化」するためには、無色にも有色にもなりうるひとつの効果を考えることが最善に思われた。その結果生まれたのが、クリーチャーの色を参照し、その数に応じてカラー・パイを決定する、この奇妙なインスタントである。
あなたが(エルドラージをはじめとする)無色のクリーチャーで攻撃しているときに唱えれば、《超常的直観/Paranormal Intuition》は対戦相手の手札を追放する無色の効果を持つ。反対に、あなたが対戦相手の有色のクリーチャーによって攻撃されているのなら、《超常的直観/Paranormal Intuition》は自分の手札を入れ替える青の伝統的な呪文に姿を変える。言うまでもなく、このカードが最も活躍するのはスタンダード環境でタルキール覇王譚の楔のクリーチャーと対峙した際で、わずかなマナで圧倒的な手札の優位をもたらしてくれることだろう。
《超常的直観/Paranormal Intuition》は決して美しくないアイデアで、テキストから何をするカードなのかを読み取ることすら難しい。しかしながら、無色と有色の効果を行き来する呪文ほど欠色にふさわしいものはなく、それでいて意外にも短いテキストにまとまったことから、私はこのカードをとても気に入っている。
※……http://casualmtg.diarynote.jp/201604070027176861/
超常的発火/Paranormal Combustion (1)(赤)
インスタント
欠色(このカードは無色である。)
防御プレイヤー1人と攻撃クリーチャー1体を対象とする。そのプレイヤーは自分の手札からカードを1枚追放する。その攻撃クリーチャーの色1色につき、超常的発火はその攻撃クリーチャーにX点のダメージを与える。Xはその追放されたカードの点数で見たマナ・コストに等しい。
http://competitive-casual-magic.tumblr.com/post/157590648752/beat-the-wedge-decks
無色から多色まで効果が段階的に変わるカードをデザインするためには、何かを追放する効果ともう片方の効果の間に何らかの関連性を与えることが必要になる。それを実現するための最も単純な方法は、《超常的直観/Paranormal Intuition》のように追放したオブジェクトを(色の数に応じて)補充することだが、そのデザイン空間は決して広くはない。私が考える限りでは、カードの形で存在しているオブジェクトのうち、簡単に増減させられるものは手札と土地が限界で、それ以上はデザイン上の危険が伴うと思われる。
こうした経緯から、私は《超常的発火/Paranormal Combustion》を作ることにした。追放するものは《超常的直観/Paranormal Intuition》と全く同じだが、追放したカードのマナ・コストを参照することで、無色の追放効果の反対側にカード以外のリソース(ダメージやライフなど)を扱う効果を置くことができる。
《超常的発火/Paranormal Combustion》はウルザズ・レガシーの《紅蓮術/Pyromancy》を思わせる火力呪文だ。本家(およびその亜種)との重要な違いは、対象になったクリーチャーの色の数によってマナ・コストを参照する回数が決まることで、多色のクリーチャーならばダメージが倍増し、無色のクリーチャーならばダメージが0になる。そのため、自分の無色のクリーチャーを対象にすれば、《超常的直観/Paranormal Intuition》と同じように無色のデッキ専用の手札破壊として運用することもできる。
最後につけ加えると、《超常的直観/Paranormal Intuition》と《超常的発火/Paranormal Combustion》が欠色を「事後正当化」する仕組みは《骨ばった強兵/Bony Trooper》によく似ている。すでに説明したように、これら2枚のカードは対象にしたクリーチャーの色の数によってカラー・パイを決定するため、欠色のクリーチャーを対象にすると無色の効果を得る。このことを裏返せば、対象となった欠色のクリーチャーが、(無色にも有色にもなりうる)これらのカードを名実ともに無色にしているということを意味する。
そして、それをより広い視野で見れば、このセットに含まれるあらゆる欠色のクリーチャーが、特定の欠色のカードを無色に変える役割を持っているということになる。仮に人々がそう納得してくれたなら、エルドラージ・ドローンが単なる目印として無色にされているのではなく、曲がりなりにもメルヴィン的な目的を与えられていると証明できたことになるだろう。
魅力的なメカニズム
横暴にも戦乱のゼンディカーのエルドラージに異を唱え、すでに発売から2年以上が経ったセットのカードを新たに20枚近くも考えるという不毛な行為を通して、私の頭に浮かんだひとつの考えがある。それは、メカニズムが失敗するときには、必ずデザインも失敗しているというものだ。
メカニズムはそれ単体で存在しているわけではなく、どんな形であれカードの中に書かれている。それゆえ、たとえメカニズムを作る過程で失敗したとしても、それをカードの形に仕上げる段階において、常にメカニズムの失敗を補うだけの魅力的なデザインを発明する余地が残されている。
今回のテーマである、欠色を「事後正当化」するカード群もそれを目的に作られたものだが、現実に印刷されたカードにも同様の例は存在する。たとえば、破滅の刻きっての優秀なクリーチャーである《機知の勇者/Champion of Wits》は、ニコル・ボーラスが秘密の目的のためにミイラの軍隊を作り出すことを示した、トップダウン的で必然性の薄いキーワード能力の細部を利用して、カードの側でメカニズムを意義あるものに変化させた例だといえる。
優れたメカニズムが用意されているのなら、魅力的なカードを作ることはたやすい。反対に、メカニズムに問題があるのなら、それを使うデザイナーにはいっそうの工夫が求められる。
おそらく、これこそがこの失敗だらけのセットに私が2年以上も固執している理由なのだろう。メカニズムが失敗しているときにこそ、想像力が必要とされ、そして私はカードを想像することが趣味のユーザーなのだ。
すなわち、誠に傲慢ながら、私にとって戦乱のゼンディカーのメカニズムは魅力的なのだ。たとえそれがいかに魅力的でないとしても。
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