嚥下をやり直す

 前回のポストにも書いたが、昇華者のデザインに魅力が欠けていたのは事実だとしても、追放領域を扱うというメカニズム自体に問題があったわけではない。追放はウラモグの誘発型能力と呼応しており、その眷属の「飢え」とエルドラージの異質さを表現するための手段として正当なものだ。だとすれば、問題の多かった追放方法、すなわち嚥下のデザインを見直すことがこのセットの魅力を増大させるために必要なことに違いない。

 このような一般のプレイヤーによる再デザインの試みに馴染みのない人も多いかもしれないが、メルヴィンの中にはデザインを「鑑賞する」だけでなく「制作する」ことを同様に愛する人たちがいる。もちろん、そういった傾向のある人たちのうちごく一握りだけが実際のデザインに関わることができるのであって、そうでない人のデザインは単なる空想にすぎない。しかしそれを理解してはいても、こうしたことすらマジックの楽しみのひとつだと考える人は確実に存在するのだ。たとえて言うなら、プロツアーの中継を見ながらプロプレイヤーのドラフトのピック譜を検証する一般プレイヤーの感覚に近いものがあるだろう。

飢餓

 嚥下の問題点は、単純なメリット能力であるということに加えて、サボタージュ能力であるということだ。前者はすでに前回指摘した通りだが、後者はマジックで活躍しにくい能力の筆頭だ。マジックは基本的に相手のクリーチャーから自分のライフを守るゲームであり、相手の妨害をかいくぐってブロッカーを乗り越えなければならないこの能力は、能力の誘発条件としては最高難易度のもののひとつだといえる。それゆえ、歴史的にこの種の能力で活躍したクリーチャーは、カードを使って除去から守るだけの価値を持つアドバンテージ源であるか、ブロッカーの排除が不要な回避能力があるか、もしくはその両方であることが多い。

 したがって、明確なメリットにもならず、追放が容易であるという2つの要求を同時に解決するようなメカニズムを考案することにしよう。最初の案は、エルドラージの巨大さというフレイバーを反映させたものだ(なおカードはデザインを示すためのものなので、個別のパワー・レベルに関しては深く考えないでいただきたい)。

飢餓エルドラージ (X)(X)(2)
クリーチャー ― エルドラージ・ドローン
飢餓X(あなたがこの呪文を唱えたとき、対戦相手1人を対象とする。そのプレイヤーは自分のライブラリーの一番上からX枚のカードを追放する。)
飢餓エルドラージは、それによって追放されているカード1枚につき+2/+2の修整を受ける。
2/1


 言うまでもなくこのカードは《搭載歩行機械/Hangarback Walker》の焼き直しで、また《果てしなきもの/Endless One》のデザインスペースを若干侵してしまってもいる。しかし、適度な追放量とフレイバーに満ちたメカニズムという意味ではそこまで悪くはないはずだ。飢餓Xを持つカードはマナ・コストに(X)(X)を持ち、唱えたときにライブラリーをX枚追放する。テキスト欄ではXの値を参照し、カラー・パイに合わせた能力を持たせることができる。

 嚥下と決定的に異なるのは追放されたカードが飢餓クリーチャー自体に記録される点で、その点は刻印に似ている。要するに、何も食べていない状態では2マナのウィニーだが、対戦相手のライブラリーを食べた状態で登場すると4マナの中型クリーチャーや6マナのファッティになるというわけだ。

 昇華者の役割は、飢餓を持つクリーチャーたちの胃の内容物を「消化」すること(開発中の昇華者の能力は消化/digestと呼ばれていた)としてより明確化される。能力の代償として飢餓クリーチャーは空腹になり、参照するXの値も縮んでいく(すでに戦場を離れている場合はその限りでない)。

……http://mtg-jp.com/reading/translated/ld/0015738/(再訪世界の新しいメカニズムのデベロップ/Developing New Mechanics in a Returning World)

逆収斂

 エルドラージの特徴のひとつは無色だということで、今回デザイナーたちは有色のマナを要求するにもかかわらず無色である、という禅問答のようなカードを作り出すために相当苦労したようだ。この欠色というメカニズムは、ミラディン・ブロックの有色のマナを起動型能力に含むアーティファクトや、《サルコマイトのマイア/Sarcomite Myr》をはじめとする有色アーティファクトとはわけが違っており、単に有色のものを後づけ的に無色にするためだけに存在している。

 しかし6種類の専用のカード枠まで用意したにもかかわらず、無色というテーマがサブタイプ以上の意味を持つことはついになかった。戦乱のゼンディカー・ブロックに存在する「無色のクリーチャー」あるいは「無色の呪文」を参照するカードを、すべて「エルドラージ・クリーチャー」と「エルドラージ呪文」に置き換えてもほとんど同じように機能したことだろう(この場合の最大の問題は、マローが部族呪文を新たに作る気がないということだ)。

 何よりも、メカニズム的に欠色と追放領域はほとんど交わることがなかった。それぞれを参照するカードはあれど、本質的に関連性のないこの2つのテーマを同じエルドラージのものとして扱うには、両者を結びつける何かしらのデザイン的解決が必要だったように思われる。次の案は、それを実現するための試みだ。

逆収斂ドローン (4)(青)
クリーチャー ― エルドラージ・ドローン
欠色
瞬速
逆収斂(あなたがこの呪文を唱えたとき、対戦相手1人を対象とする。そのプレイヤーは自分のライブラリーの一番上からX枚のカードを追放する。Xは、5引くこのカードを唱えるために支払われたマナの色の総数である。)
逆収斂ドローンが戦場に出たとき、それによって追放されているカード1枚につきクリーチャー1体を対象とする。その1体目と2体目と3体目をタップし、4体目を追放する。
3/3


 逆収斂は、プレイヤーにデッキの色を減らすよう求めるメカニズムだ。収斂や烈日がマナの色の総数に応じて強力になったのに対し、逆収斂ではそれが少ないほど強力な効果を得られる。このカードのデザインでは、支払われたマナの色が多い場合には青の伝統的な効果を発揮するが、それが最小になると突然カラー・パイが捻じ曲がり、無色の呪文としての効果に変わる。とはいえ大量の青マナを注ぎ込むことでも同様の効果を得られるため、片手落ちの感は否めないのだが。

 このカードのデザインが成功しているかどうかはさておき、このメカニズムは難しい調整を強いられる可能性が高い。なぜならマナ・コストの低い逆収斂クリーチャーほど高い効果を得やすくなるためマナ・コストを高めに設定せざるをえず、結果的にリミテッド環境が遅くなることが予想されるからだ。さらに悪いことに、遅いゲームでは3〜5枚程度の《石臼/Millstone》効果ですら連発すると致死量になりかねず、したがってこの能力の存在自体が危ぶまれることになるだろう。

逆収斂(このクリーチャーが戦場に出たとき、対戦相手1人を対象とする。そのプレイヤーは自分のライブラリーの一番上からX枚のカードを追放する。Xは、このカードの点数で見たマナ・コスト引くこのカードを唱えるために支払われた有色のマナの総数である。)


 逆収斂をこのように改良すれば上記2つの問題は回避できるかに思える。しかし言うまでもなく、このような表記は単に無色マナを数える能力を冗長に書き直したものにすぎない。改良前にもあった欠点だが、無色マナは次のエキスパンションで大々的にフィーチャーされるうえ、それはコジレックのものと定められている。逆収斂のテキスト自体に無色マナ・シンボルは登場しないが、テーマの重複は大いにはばかられることだ。

……http://markrosewater.tumblr.com/post/137030918143/if-you-has-introduced-the-colorless-symbol-in-bfz

無色召集

無色召集の巣 (7)
エンチャント
無色召集(この呪文を唱えるに際しあなたがタップした無色のパーマネント1つで(1)を支払う。)
あなたが無色召集の巣を唱えたとき、対戦相手1人を対象とする。そのプレイヤーは自分のライブラリーの一番上からX枚のカードを追放する。Xはあなたがコントロールするタップ状態の無色のクリーチャーの数に等しい。
破壊不能
あなたが唱える無色の呪文は無色召集を持つ。


 無色と追放領域を結びつけるもうひとつの案は、無色のクリーチャーを参照してライブラリーを追放するというものだ。このデザインのフレイバー的な美点は、大抵の場合コストとして土地をタップすることになるため土地からマナを出す必要がないということだ。呪文の側で土地をあたかも無色土地として扱うという処理方法は、ゼンディカーの土地を無差別に荒廃させていくエルドラージにうってつけのものだし、また逆収斂にあったマナの色に言及して次のセットの楽しみを削ぐという心配もない。

 細かく見ていくと、無色召集はこのカードに印刷されたライブラリーを追放する能力とシナジーを形成するだけで、直接追放はしない。デザイン次第では追放する能力だけを持つカードや、タップ状態の無色のクリーチャーを参照する別の能力を作ることも可能だ。さらに無色召集でタップできるのは無色のパーマネントなので、このカードのような無色のエンチャントのデザイン空間も一気に開けるかもしれない(ただし、エンチャントをタップするべきではないという意見が根強くあることを忘れてはならない)。

 召集は実質的にコストを軽減する能力だが、親和や探査ほど壊れた性能ではなく、事実複数回に渡って再録もされた。無色召集は召集と違いクリーチャーでないアーティファクトやエンチャントをコストにすることもできるが、それらを大量にばらまく手段は限られているため度を越した危険性はないはずだ。むしろ劇的に相性がいいのは《ウギンの目/Eye of Ugin》で、現実世界のエルドラージ以上にモダン環境に悪影響を及ぼしてしまうかもしれない。

 スタンダードでの目下の問題は末裔・トークンとのルール的な相互作用だろう。このポストのために召集を調べていて初めて知ったが、末裔・トークンをタップして召集コストを支払ったうえで、さらに生け贄に捧げてマナの支払いに充てることは現在のルールでは不可能になっている。しかし、カードリストを見たプレイヤーのはたして何割がこの問題に即答できるだろうか? 仮に無色召集を採用するとなれば、おそらくこの相互作用をコミュニティに周知するという必要経費がデザイン的魅力から差し引かれることになるだろう。

マーカー問題

 無色召集は欠色とのシナジーを持っているので、欠色がサブタイプ以上の役割を持たないことに対する解決策になっている。ただし、ライブラリーのカードを追放する能力はそうではない。昇華者のデザイン次第でいかようにも転びうるとはいえ、追放領域のメカニズム的な必然性は薄いままで、単に数を記録するためのある種のマーカーにすぎない。もしもライブラリーを追放する代わりにプレイヤーに経験カウンターを得させ、昇華者がそれを消費するようにデザインされていたとしても、スタンダードで失われるのはせいぜい追放除去とのシナジー程度のものだったに違いない。

 端的に言えば、戦乱のゼンディカーのエルドラージは純粋なトップダウン・デザインであり、それゆえ各要素がきわめてフレイバー的で、システム的な統一感がなかったのだ。このことは、隣接するカードセットにまさにシステム上の必要性からデザインされたように見える、無色マナを要求するエルドラージが存在しているだけにいっそう際立って感じられる。

 個人的には、戦乱のゼンディカーのエルドラージに与えるべきテーマを持っているのは、皮肉なことにゲートウォッチの誓いの《ゲトの裏切り者、カリタス/Kalitas, Traitor of Ghet》なのではないかと考えている。カリタスの持つ擬似《虚空の力線/Leyline of the Void》能力は彼が相手のクリーチャーの死体をゾンビ化する様子を表現したものだが、彼がエルドラージに服従する前の姿である《ゲトの血の長、カリタス/Kalitas, Bloodchief of Ghet》と比較すると、追放領域という今回のエルドラージのテーマと呼応させるためにデザインされたように見えなくもない。

 いずれにせよ、追放領域にマーカー以上の必然性を持たせるには(ゲートウォッチの誓い発売前のモダン環境で黒単エルドラージがやっていたように)ある種のヘイトベアー的妨害戦略をエルドラージのテーマにすることが最も自然だったように思う。すべてのエルドラージ・ドローンに《大祖始の遺産/Relic of Progenitus》や《頭蓋の摘出/Cranial Extraction》レベルの能力を与える必要はないが、嚥下の代わりに《死体焼却/Cremate》や《逃れえぬ運命/Sealed Fate》程度の能力を持っていたとしたら、エルドラージが何をする存在なのかシステム上でも明確になったことだろう。度を越してゲームを窮屈にしない範囲で追放能力に意義を与えることは、わざわざゲームに影響を及ぼさない追放可能な場所を探して嚥下をデザインすることよりも賢明に思える。

戦乱の終わり

 あまりに長大な内容になってしまったので、追放による妨害とビートダウンをテーマに生まれ変わったエルドラージのデザインは可能性に留めておこう。このポストを書いている最中に気づいたのは、再デザインの試みは『アフターマン』や『新恐竜』に描かれた世界によく似ているということだ。前者は人類が絶滅した後の未来の地球で、後者は恐竜が絶滅しなかった現代の地球でどんな生物が進化しているかに関する著者ドゥーガル・ディクソンの学術的な体裁の妄想なのだが、ありえたかもしれないデザインの可能性を探る試みも同様の魅力と滑稽さを持っている。

 誤解しないでいただきたいのは、私が戦乱のゼンディカーのデザインをこき下ろしたからといって、WotCやマジック自体に対して批判的になっているわけではないということだ。映画評論家がいくら特定の映画に対してあれこれ言ったところで映画そのものを嫌いになることが決してないのと同じで、それがメルヴィン流のマジックに対する親しみ方なのだ。

 いちカジュアルプレーヤーとして、カードデザインの良し悪しに関する議論はマジックの楽しみとしてあまり共有されていないように感じる。このポストの内容は客観的に見て偏っており、すべてが誰にでも受け入れられるとは到底思えないが、もしもこれを読んだあなたが私と同じような楽しみに少しでも気づいてくれたなら、これ以上幸せなことはない。

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