戦乱の前
賛否あるのを承知で言えば、タルキール覇王譚はメルヴィン的に見て素晴らしいブロックだったと思う。そう感じられるのは私がかつてのオンスロート・ブロックに強い愛着を持っているからかもしれないが、たとえ再録されたフェッチランドを差し引いたとしても、このブロックは有り余るデザイン的魅力に溢れている。
たとえばR&Dは変異クリーチャーたちに、楔3色がテーマのリミテッドで往々にして脆弱になりやすいマナ基盤を間接的に助ける役割を見出した。少なくともそれらはどんな色の組み合わせからもプレイできる3マナ2/2のクリーチャーであり、またその使用を肯定するために低マナ域は弱くデザインされていた。このことは適度にリミテッドのゲームスピードを遅らせ、結果的に3色のマナを揃えるための時間をプレイヤーにもたらした。
では、それら裏向きのクリーチャーたちは単なるデザイン的要請によって再登場したのかというと、むろんそうではない。彼らは無色の呪文に長けた無色のプレインズウォーカーの魔法の賜物であり、かつて彼がタルキールに生きていたことを示すためのストーリー的にたいへん重要な要素だ。ウギンの復活は次の戦乱のゼンディカー・ブロックへの布石として必要で、故郷を訪れた別のプレインズウォーカー、サルカンによって時空を超えて救出されるという物語になっている。
こうして周知の通り現在、過去、改変された現在の3つの時間軸にまたがってブロックが展開していくわけだが、そのたびに違った可能性を見せる裏向きのクリーチャーというテーマは、これもかつて私が好きだったブロックである時のらせんを思い起こさせ、とてもエキサイティングなものだった。
そしてなおも素晴らしいのは、このブロックが3セット制と2セット制の間をつなぐという、どちらかというとマーケティング的な問題をデザインとストーリーの両面から無理なく実現可能にしていたことだ。タルキールにおけるサルカンの物語は3セットに渡っているが、彼が改変した時間軸は龍紀伝にのみ流れている。次のローテーションでは覇王譚と運命再編が落ち、デザイン的に比較的独立した龍紀伝だけが残る。こうしたクリエイティブとデザインが相互補完し合う関係は、マジックの理想のまさに究極を行くものだ。1996年にミラージュ・ブロックが発売されてから20年続いた3セット1ブロック制のまさに集大成にふさわしい仕事だったといえるだろう。
ゼンディカーへ
ここまで、日記のタイトルに反してひとつ前のブロックを絶賛してきたのは、タルキール覇王譚でマジックに復帰した私の感動を記しておく必要があると思ったからだ。R&Dは以前に比べて確実に成長している、マジックのコンテンツとしての魅力に真剣に取り組んでいると、新時代のマジックにいたく感心したものだ。
しかし想像に難くないように、戦乱のゼンディカーのカードリストを見た私の反応はこれとは大きく異なるものだった。このカードセットは発売後にデザインに対する批判記事※が書かれるほど、セットとしての魅力が欠けていると多くの人に認識されていた。当初私も同じように、憤りと落胆とが入り混じったような感情に苛まれたが、次第にいったい何がこのセットの魅力を目減りさせているのかについて考えを巡らすようになった。そこで、このポストにはそれに対する私なりの回答と、加えてもし私ならどう作っただろうかというアイデアを書き留めておこうと思う。
断っておくと私は当然R&Dの一員でも、何かしらのゲームのデザイナーでもないので、このような行為は無益な妄想でしかない。また、構築やリミテッドを熱心にプレイしている競技プレイヤーでもないので、この日記によってあなたのプレイングや構築技術が向上するわけでもない。しかし、有名プレイヤーの立場に立って試合を観戦するように、デザイナーの立場に立ってデザインを鑑賞するメルヴィン的視点を、星の数ほどあるマジックの楽しみ方のひとつとして楽しんでもらえたらと願っている。
※……http://ch.nicovideo.jp/nagi-mtg/blomaga/ar880647(間違いだらけの「戦乱のゼンディカー」/Everything That’s Wrong with Battle for Zendikar)
BFZとOGW
カードセットとしての戦乱のゼンディカーの失敗とは裏腹に、ブロックとしての戦乱のゼンディカーの評価は、続くゲートウォッチの誓いによって多少なりとも持ち直したことだろう。無色マナという新たなデザイン空間を発掘し、構築級のカードをいくつも生み出した(とはいえ過去のエルドラージの部族カードとの相互作用は、モダン環境で少々やりすぎたきらいがある)。《大いなる歪み、コジレック/Kozilek, the Great Distortion》が非公式に公開された当時、それがフェイクでありえたことも相まって、この新たなマナ・シンボルがユーザーに与えた衝撃は計り知れないものがあった。
ゲートウォッチの誓い発売後の未来から見ると、戦乱のゼンディカーのカードパワーの全体的な低さ、ないし地味さは不可思議なものにすら思える。R&Dが魅力的なカードをデザインする力を失ったわけではない。にもかかわらず隣接するカードセットのデザインにどうしてここまで差がついてしまったのだろうか?
誤解しないでいただきたいのだが、私はなにも、戦乱のゼンディカーのレアカード全てのカードパワーを《難題の予見者/Thought-Knot Seer》レベルに引き上げるべきだと言っているのではない。しかし、たとえば《反射魔道士/Reflector Mage》のような優秀なアンコモンや、リミテッドレベルでの《吸血鬼の特使/Vampire Envoy》のようなデザイン的魅力に富んだカードが戦乱のゼンディカーにもう少しあってもよかったのではないだろうか、そう疑問に思わせるものがこの2つのカードセットの間にはある。
メリットがデメリットに
一般的に、カードパワーの調整はデザインではなくデベロップの役割だと知られている。したがって、戦乱のゼンディカーの失敗は調整段階のデベロップの失敗だと考えることもできるだろう。しかし、デベロップがカードパワーを下げざるをえないようなデザイン的要因があったとしたらどうだろうか?
戦乱のゼンディカーに含まれるメカニズムには、上陸、覚醒、結集、収斂(ゼンディカー側)、欠色、嚥下、昇華者、末裔・トークン(エルドラージ側)がある。私の考えでは、この中で最も問題があるメカニズムは嚥下だ。この、近年追加された中でも屈指の地味なキーワード能力が最も有害である理由は、それが極めて軽微な効果しかもたらさないにもかかわらず基本的にメリット能力だということにある。マジックのプレイヤーはよくマナレシオやコスト・パフォーマンスといったカードの評価基準を口にするが、クリーチャーが一切のデメリット能力なしに多数のメリット能力を持つということは本来ありえない。嚥下を持ったクリーチャーは、それがないクリーチャーよりも極端に強くデザインされるわけにはいかず、結果としてこの能力は単純なデメリット能力のように働いている。
もちろん、R&Dがその点に自覚的だったことも事実だろう。嚥下を持つクリーチャーは現時点で9枚印刷されているが、1マナ1/1の《回収ドローン/Salvage Drone》や《泥這い/Sludge Crawler》をはじめ、《淘汰ドローン/Culling Drone》(2マナ2/2)、《霧の侵入者/Mist Intruder》(2マナ1/2飛行)、青の優秀なコモンとして名高い《水底の潜入者/Benthic Infiltrator》(3マナ1/4アンブロッカブル)などを見れば、マナ効率が平均を下回らないようぎりぎりの線が検討されていることがわかる。
しかし同時に、そのこと自体がこの能力のデザインスペースの狭さを物語ってもいる。タルキール覇王譚でフィーチャーされた楔3色の多色カードや、ゲートウォッチの誓いで登場した無色マナをコストに持つカードがわかりやすい例だが、マジックにはデメリット(これらの場合はコストの捻出しにくさ)が設定されているカードはオーバーパワー気味にデザインしやすいというよく知られた法則がある。したがって、いくら嚥下を持つカードを平均程度のカードパワーでデザインできたとしても、デメリットを口実にハイスペックにデザインされたカードの前に魅力で劣るのは自明なことだ。
しりごみさせるメカニズム
そして嚥下は、何よりも昇華者のために生み出されたメカニズムだ。R&Dはセットの目玉となるエルドラージ側のメカニズムを機能させるために、こうした至極平均的なマナ効率のクリーチャーが戦闘で優位に立てるようにリミテッドのバランスを調整する必要があったものと思われる。
私には、これが戦乱のゼンディカーのカードパワーを押し下げた最も大きな要因だと思えてならない。全くの推測の域を出ないが、これらエルドラージ側の戦略を一瞬で無に帰す恐れのあるカードや戦略は軒並みパワーダウンされ、構築級になる可能性があったカードも一部を除いてリミテッドレベルにまで引き下げられたのではないか、そんなことすら考えている。
それゆえ、意外なことに私はこのセットの他の要素については基本的に肯定的だ。たとえば収斂は、無色のエルドラージと対比するには格好のメカニズムだと思うし、結集も以前の同盟者の能力より実用的なフォーマットになったと思う。これらの問題はパワー・レベルにあり、積極的な調整を許す環境ならばもっと魅力的なものになったことだろう。もしも《タジュールの戦呼び/Tajuru Warcaller》が4マナだったなら? 《待ち伏せ隊長、ムンダ/Munda, Ambush Leader》が同盟者版《ゴブリンの首謀者/Goblin Ringleader》だったとしたら?
昇華者の是非
当然ながら、嚥下を批判するのなら嚥下と昇華者という冗長なシステム自体を問題視するべきだ、という意見もあるだろう。ただ私は先に述べた通り、嚥下以外のメカニズムについては肯定的な見方をしている。メカニズム面で言えば、より下位の戦闘員が上位の戦闘員のための資源を作り出すことは落とし子・トークンとともに登場したエルドラージにとっては自然なことだし、トップダウン的に組織されたエイリアンの軍隊というフレイバーは「スターシップ・トゥルーパーズ(1997)」や「スカイライン(2010)」のようにポピュラーなものだ。
昇華者といえば、WotCがデュエルデッキのプレビュー・カードに《忘却蒔き/Oblivion Sower》を選んだことは正解だったといえる。このカードは戦乱のゼンディカーのエルドラージのテーマとして新たに追放領域を扱うことを明示しており、また、このブロックのストーリーがゼンディカーの領土をめぐるエルドラージとの戦いであることをデザイン的に表現してもいる。
ひとつ問題があるとすれば、このカードのサブタイプに昇華者がないことだ。R&Dは追放領域から墓地に置くカードのみを厳密に昇華者と定義したようだが、私は追放領域を操作するエルドラージのカード全般を昇華者として定義した方が昇華者のデザインの可能性が広がったのではないかと考えている。なぜなら、昇華者は能力のコストの奇妙さと対照的にそれによってもたらされる効果があまりにも平凡で、それがこのセットのデザインを退屈に感じさせる原因のひとつになっているように思えるからだ。
たとえば《霞の徘徊者/Murk Strider》と《精神を掻き寄せるもの/Mind Raker》はそれぞれ大きい《大クラゲ/Man-o’-War》と《貪欲なるネズミ/Ravenous Rats》で、このブロックでなくとも容易にデザイン可能なものだ。《不毛の地の絞殺者/Wasteland Strangler》は構築で最もよく使われた昇華者だが、これも軽い《皮裂き/Skinrender》でしかない。R&Dの面々による記事を見る限り、どうやら彼らはこれらのクリーチャーのフォーマットを作るのに手一杯だったようで、それぞれの昇華者に独創性を持たせるだけの時間的余裕がなかったのだと思われる。
そういった意味で、《忘却蒔き/Oblivion Sower》は(実際には昇華者でないにもかかわらず)デザイン的に最高の昇華者だといえるだろう。単体で完結してもいるが、嚥下によるサポートも受けられる。シナジーにより爆発的なアドバンテージを生み出すこともあるが、それだけでゲームを終わらせるほどではない。何よりも、対戦相手の追放領域の土地・カードを奪うという奇妙なテキストが最高にエルドラージらしい。もしデザイナーが再び昇華者に取り組む機会があるならば、このカードの周囲にあるデザイン空間を掘り起こしてみるべきだろう。
(後編に続く)
賛否あるのを承知で言えば、タルキール覇王譚はメルヴィン的に見て素晴らしいブロックだったと思う。そう感じられるのは私がかつてのオンスロート・ブロックに強い愛着を持っているからかもしれないが、たとえ再録されたフェッチランドを差し引いたとしても、このブロックは有り余るデザイン的魅力に溢れている。
たとえばR&Dは変異クリーチャーたちに、楔3色がテーマのリミテッドで往々にして脆弱になりやすいマナ基盤を間接的に助ける役割を見出した。少なくともそれらはどんな色の組み合わせからもプレイできる3マナ2/2のクリーチャーであり、またその使用を肯定するために低マナ域は弱くデザインされていた。このことは適度にリミテッドのゲームスピードを遅らせ、結果的に3色のマナを揃えるための時間をプレイヤーにもたらした。
では、それら裏向きのクリーチャーたちは単なるデザイン的要請によって再登場したのかというと、むろんそうではない。彼らは無色の呪文に長けた無色のプレインズウォーカーの魔法の賜物であり、かつて彼がタルキールに生きていたことを示すためのストーリー的にたいへん重要な要素だ。ウギンの復活は次の戦乱のゼンディカー・ブロックへの布石として必要で、故郷を訪れた別のプレインズウォーカー、サルカンによって時空を超えて救出されるという物語になっている。
こうして周知の通り現在、過去、改変された現在の3つの時間軸にまたがってブロックが展開していくわけだが、そのたびに違った可能性を見せる裏向きのクリーチャーというテーマは、これもかつて私が好きだったブロックである時のらせんを思い起こさせ、とてもエキサイティングなものだった。
そしてなおも素晴らしいのは、このブロックが3セット制と2セット制の間をつなぐという、どちらかというとマーケティング的な問題をデザインとストーリーの両面から無理なく実現可能にしていたことだ。タルキールにおけるサルカンの物語は3セットに渡っているが、彼が改変した時間軸は龍紀伝にのみ流れている。次のローテーションでは覇王譚と運命再編が落ち、デザイン的に比較的独立した龍紀伝だけが残る。こうしたクリエイティブとデザインが相互補完し合う関係は、マジックの理想のまさに究極を行くものだ。1996年にミラージュ・ブロックが発売されてから20年続いた3セット1ブロック制のまさに集大成にふさわしい仕事だったといえるだろう。
ゼンディカーへ
ここまで、日記のタイトルに反してひとつ前のブロックを絶賛してきたのは、タルキール覇王譚でマジックに復帰した私の感動を記しておく必要があると思ったからだ。R&Dは以前に比べて確実に成長している、マジックのコンテンツとしての魅力に真剣に取り組んでいると、新時代のマジックにいたく感心したものだ。
しかし想像に難くないように、戦乱のゼンディカーのカードリストを見た私の反応はこれとは大きく異なるものだった。このカードセットは発売後にデザインに対する批判記事※が書かれるほど、セットとしての魅力が欠けていると多くの人に認識されていた。当初私も同じように、憤りと落胆とが入り混じったような感情に苛まれたが、次第にいったい何がこのセットの魅力を目減りさせているのかについて考えを巡らすようになった。そこで、このポストにはそれに対する私なりの回答と、加えてもし私ならどう作っただろうかというアイデアを書き留めておこうと思う。
断っておくと私は当然R&Dの一員でも、何かしらのゲームのデザイナーでもないので、このような行為は無益な妄想でしかない。また、構築やリミテッドを熱心にプレイしている競技プレイヤーでもないので、この日記によってあなたのプレイングや構築技術が向上するわけでもない。しかし、有名プレイヤーの立場に立って試合を観戦するように、デザイナーの立場に立ってデザインを鑑賞するメルヴィン的視点を、星の数ほどあるマジックの楽しみ方のひとつとして楽しんでもらえたらと願っている。
※……http://ch.nicovideo.jp/nagi-mtg/blomaga/ar880647(間違いだらけの「戦乱のゼンディカー」/Everything That’s Wrong with Battle for Zendikar)
BFZとOGW
カードセットとしての戦乱のゼンディカーの失敗とは裏腹に、ブロックとしての戦乱のゼンディカーの評価は、続くゲートウォッチの誓いによって多少なりとも持ち直したことだろう。無色マナという新たなデザイン空間を発掘し、構築級のカードをいくつも生み出した(とはいえ過去のエルドラージの部族カードとの相互作用は、モダン環境で少々やりすぎたきらいがある)。《大いなる歪み、コジレック/Kozilek, the Great Distortion》が非公式に公開された当時、それがフェイクでありえたことも相まって、この新たなマナ・シンボルがユーザーに与えた衝撃は計り知れないものがあった。
ゲートウォッチの誓い発売後の未来から見ると、戦乱のゼンディカーのカードパワーの全体的な低さ、ないし地味さは不可思議なものにすら思える。R&Dが魅力的なカードをデザインする力を失ったわけではない。にもかかわらず隣接するカードセットのデザインにどうしてここまで差がついてしまったのだろうか?
誤解しないでいただきたいのだが、私はなにも、戦乱のゼンディカーのレアカード全てのカードパワーを《難題の予見者/Thought-Knot Seer》レベルに引き上げるべきだと言っているのではない。しかし、たとえば《反射魔道士/Reflector Mage》のような優秀なアンコモンや、リミテッドレベルでの《吸血鬼の特使/Vampire Envoy》のようなデザイン的魅力に富んだカードが戦乱のゼンディカーにもう少しあってもよかったのではないだろうか、そう疑問に思わせるものがこの2つのカードセットの間にはある。
メリットがデメリットに
一般的に、カードパワーの調整はデザインではなくデベロップの役割だと知られている。したがって、戦乱のゼンディカーの失敗は調整段階のデベロップの失敗だと考えることもできるだろう。しかし、デベロップがカードパワーを下げざるをえないようなデザイン的要因があったとしたらどうだろうか?
戦乱のゼンディカーに含まれるメカニズムには、上陸、覚醒、結集、収斂(ゼンディカー側)、欠色、嚥下、昇華者、末裔・トークン(エルドラージ側)がある。私の考えでは、この中で最も問題があるメカニズムは嚥下だ。この、近年追加された中でも屈指の地味なキーワード能力が最も有害である理由は、それが極めて軽微な効果しかもたらさないにもかかわらず基本的にメリット能力だということにある。マジックのプレイヤーはよくマナレシオやコスト・パフォーマンスといったカードの評価基準を口にするが、クリーチャーが一切のデメリット能力なしに多数のメリット能力を持つということは本来ありえない。嚥下を持ったクリーチャーは、それがないクリーチャーよりも極端に強くデザインされるわけにはいかず、結果としてこの能力は単純なデメリット能力のように働いている。
もちろん、R&Dがその点に自覚的だったことも事実だろう。嚥下を持つクリーチャーは現時点で9枚印刷されているが、1マナ1/1の《回収ドローン/Salvage Drone》や《泥這い/Sludge Crawler》をはじめ、《淘汰ドローン/Culling Drone》(2マナ2/2)、《霧の侵入者/Mist Intruder》(2マナ1/2飛行)、青の優秀なコモンとして名高い《水底の潜入者/Benthic Infiltrator》(3マナ1/4アンブロッカブル)などを見れば、マナ効率が平均を下回らないようぎりぎりの線が検討されていることがわかる。
しかし同時に、そのこと自体がこの能力のデザインスペースの狭さを物語ってもいる。タルキール覇王譚でフィーチャーされた楔3色の多色カードや、ゲートウォッチの誓いで登場した無色マナをコストに持つカードがわかりやすい例だが、マジックにはデメリット(これらの場合はコストの捻出しにくさ)が設定されているカードはオーバーパワー気味にデザインしやすいというよく知られた法則がある。したがって、いくら嚥下を持つカードを平均程度のカードパワーでデザインできたとしても、デメリットを口実にハイスペックにデザインされたカードの前に魅力で劣るのは自明なことだ。
しりごみさせるメカニズム
そして嚥下は、何よりも昇華者のために生み出されたメカニズムだ。R&Dはセットの目玉となるエルドラージ側のメカニズムを機能させるために、こうした至極平均的なマナ効率のクリーチャーが戦闘で優位に立てるようにリミテッドのバランスを調整する必要があったものと思われる。
私には、これが戦乱のゼンディカーのカードパワーを押し下げた最も大きな要因だと思えてならない。全くの推測の域を出ないが、これらエルドラージ側の戦略を一瞬で無に帰す恐れのあるカードや戦略は軒並みパワーダウンされ、構築級になる可能性があったカードも一部を除いてリミテッドレベルにまで引き下げられたのではないか、そんなことすら考えている。
それゆえ、意外なことに私はこのセットの他の要素については基本的に肯定的だ。たとえば収斂は、無色のエルドラージと対比するには格好のメカニズムだと思うし、結集も以前の同盟者の能力より実用的なフォーマットになったと思う。これらの問題はパワー・レベルにあり、積極的な調整を許す環境ならばもっと魅力的なものになったことだろう。もしも《タジュールの戦呼び/Tajuru Warcaller》が4マナだったなら? 《待ち伏せ隊長、ムンダ/Munda, Ambush Leader》が同盟者版《ゴブリンの首謀者/Goblin Ringleader》だったとしたら?
昇華者の是非
当然ながら、嚥下を批判するのなら嚥下と昇華者という冗長なシステム自体を問題視するべきだ、という意見もあるだろう。ただ私は先に述べた通り、嚥下以外のメカニズムについては肯定的な見方をしている。メカニズム面で言えば、より下位の戦闘員が上位の戦闘員のための資源を作り出すことは落とし子・トークンとともに登場したエルドラージにとっては自然なことだし、トップダウン的に組織されたエイリアンの軍隊というフレイバーは「スターシップ・トゥルーパーズ(1997)」や「スカイライン(2010)」のようにポピュラーなものだ。
昇華者といえば、WotCがデュエルデッキのプレビュー・カードに《忘却蒔き/Oblivion Sower》を選んだことは正解だったといえる。このカードは戦乱のゼンディカーのエルドラージのテーマとして新たに追放領域を扱うことを明示しており、また、このブロックのストーリーがゼンディカーの領土をめぐるエルドラージとの戦いであることをデザイン的に表現してもいる。
ひとつ問題があるとすれば、このカードのサブタイプに昇華者がないことだ。R&Dは追放領域から墓地に置くカードのみを厳密に昇華者と定義したようだが、私は追放領域を操作するエルドラージのカード全般を昇華者として定義した方が昇華者のデザインの可能性が広がったのではないかと考えている。なぜなら、昇華者は能力のコストの奇妙さと対照的にそれによってもたらされる効果があまりにも平凡で、それがこのセットのデザインを退屈に感じさせる原因のひとつになっているように思えるからだ。
たとえば《霞の徘徊者/Murk Strider》と《精神を掻き寄せるもの/Mind Raker》はそれぞれ大きい《大クラゲ/Man-o’-War》と《貪欲なるネズミ/Ravenous Rats》で、このブロックでなくとも容易にデザイン可能なものだ。《不毛の地の絞殺者/Wasteland Strangler》は構築で最もよく使われた昇華者だが、これも軽い《皮裂き/Skinrender》でしかない。R&Dの面々による記事を見る限り、どうやら彼らはこれらのクリーチャーのフォーマットを作るのに手一杯だったようで、それぞれの昇華者に独創性を持たせるだけの時間的余裕がなかったのだと思われる。
そういった意味で、《忘却蒔き/Oblivion Sower》は(実際には昇華者でないにもかかわらず)デザイン的に最高の昇華者だといえるだろう。単体で完結してもいるが、嚥下によるサポートも受けられる。シナジーにより爆発的なアドバンテージを生み出すこともあるが、それだけでゲームを終わらせるほどではない。何よりも、対戦相手の追放領域の土地・カードを奪うという奇妙なテキストが最高にエルドラージらしい。もしデザイナーが再び昇華者に取り組む機会があるならば、このカードの周囲にあるデザイン空間を掘り起こしてみるべきだろう。
(後編に続く)
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